森鴎外は日露戦争で重大な医療過誤を起こした。

文豪森鴎外が陸軍の軍医であったことはよく知られています。

しかしその森鴎外が、大きな医療過誤ともいえる間違いを犯したことは、あまり知られていないでしょう。

 

以前は健康診断を受けたり、風邪などで医師の診察を受けると、必ずゴムのハンマーで膝をコンコンと打たれました。

そして膝から下がポンと跳ねあがる反応がないと「脚気」を疑われました。

 

その昔「脚気」はとても多い病気で、死に至ることも少なくありませんでした。

原因がビタミンB1の摂取不足であることがわかるまでに、多大な犠牲者が出たことでしょう。

 

明治時代富国強兵政策で近代軍隊組織を持つことになった明治政府においても、兵士の30パーセントにも及ぶ脚気病は悩みの種でした。

「いったいなにが原因なのか?」ということが軍事衛生上の大きな課題だったのです。

 

そんな中、わき起こったのが海軍軍医の高木兼寛森鴎外によるバトルです。

海軍の軍医で疫学研究が盛んなイギリスに留学していた高木は、疫学的見地から兵士の食料摂取に注目していました。

 

そうしたところ、白米(炭水化物)ばかりが多くたんぱく質の摂取が極端に少ないことに気づき「栄養障害説」を唱えるとともに、パンと肉のような洋食を取り入れるべきだと主張したのです。

 

対する森鴎外は病原菌研究に熱心なドイツで学んでいたことから、伝染病説の見地に立つことになりました。

高木兼寛説に異を唱えた陸軍の石黒忠悳軍医総監から意見を求められると、ドイツ留学中の森鴎外は最先端の論文をあさった結果「脚気は食糧摂取とは関係ない」とまで言い切っています。

 

栄養障害説の高木兼寛はそばや麦を奨励し、みそ汁に糠を加える「糖療法」を行いましたが、民間療法とされ患者からは評価されつつも主流にはなれませんでした。

しかし日露戦争では、脚気対策用に海軍兵士に麦飯が支給されてビタミンB1を摂取できたことで、海軍の脚気患者は 87人にとどまっています。

 

一方森鴎外は、陸軍兵士に麦飯を禁止する通達を出しています。

日露戦争に出兵した陸軍は 25万人の脚気患者を出し、3万人近い兵士を病死させる結果となりました。

もちろん脚気の原因物質がわからなかった時代ですから「医療過誤だ」と森鴎外を責めることはできないでしょうが、もうちょっとライバルのいうことに耳を傾ける度量を持っていれば、犠牲者を減らせたかもしれません。

[surfing_su_box_ex title="森鴎外"](1862~1922年)明治・大正期に活躍した小説家、翻訳家で、陸軍軍医。本名は森林太郎(もりりんたろう)。代表作に、自身のドイツ留学時代をモデルにしたとされる小説「舞姫」のほか「阿部一族」「高瀬舟」など。歴史小説や史伝なども執筆した。[/surfing_su_box_ex]

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