江戸時代に初めて米大統領に会った日本人は?
日本で生涯に一度でも、アメリカの大統領に会えるという人はそれほどたくさんいないと思います。
日本の総理大臣でさえ、米大統領に会うと、それをお手柄にしたりします。
ところが、江戸時代の末期に米大統領と謁見した日本人がいました。
しかも1人だけでなく、3人の大統領とです。
そのうちの一人はあのエイブラハム・リンカーンだったといいます。
その人物、浜田彦蔵は幕末の1837年、現在の兵庫県に生まれました。
13歳で母を亡くした直後、義父が彦蔵をなぐさめるつもりで江戸へ行かせようとしましたが、乗っていた船が難破遭難します。
ぞして、アメリカの商船・オークランド号に発見され、アメリカに渡ります。
彦蔵は1853年、日本人として初めてアメリカ大統領フランクリン・ピアースに謁見しました。
また1858年には、ピアースの次代大統領ジェームズ・ブキャナンにも謁見しました。
同年、日米修好通商条約により日本が開国したことを知り、日本に帰国したいと願ったが、日本国内ではご法度のキリシタンとなっていたことから帰国が叶わず、帰化してアメリカ国民ジョセフ・ヒコとなりました。
その後、明治の世を迎えた1859年神奈川領事館通訳として採用され、9年ぶりの帰国を果たすのです。
しかし、尊王攘夷ムードの中で自分が命を狙われる存在と知り、再度アメリカに戻りました。
そして、南北戦争の真っただ中の1862年に、大統領エイブラハム・リンカーンに謁見しています。
この時リンカーンは、ヒコに日本のことをいろいろと尋ねるとともに、民主主義の理念を伝授しました。
ヒコはリンカーンの人柄に魅了され、民主主義の信奉者となりました。
2年ほど後に帰国したヒコは、横浜の居留地で商社を立ち上げます。
そしてあるとき、ニューヨークタイムズの記事で、自分が会ったリンカーンが南北戦争の激戦地ゲティスバーグで「人民の人民による人民のための政治」と演説したことを知りました。
さらにその新聞記事がアメリカ国民に大きな影響を与えた事実を知って、日本でも新聞を発刊したいと思うようになります。
そうして1864年、英字新聞を邦訳した日本初の新聞「海外新聞」が誕生します。
しかし、この新聞は2年ほど続いたものの、居留地の火事などのため廃刊に追い込まれてしまいました。
ヒコの元には木戸孝允と伊藤博文が訪ねてきたこともありました。
ヒコは彼らに民主政治の理念を説いて聞かせたといわれています。
リンカーンが暗殺されたのは1865年。
この時日本は慶応元年でした。
ヒコは死を悼み、国務長官宛に、悔やみ状を送っています。
現在、横浜中華街に「日本国新聞発祥之地」の碑が立っています。
かつてジョセフ・ヒコの住まいがあった場所です。
[su_box title="日米修好通商条約"]
1858年7月29日(安政5年6月19日)に、江戸幕府とアメリカ合衆国の間で結ばれた貿易の自由を認める通商条約。
欧米ではアメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠にした、ハリス条約(Haris Treaty)として知られる。
日本側の調印者は大14代将軍徳川家茂。
アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、日本側に不平等条約であり、のちに尊王攘夷運動に発展していく。
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[su_box title="尊王攘夷"]
君主である「天皇」を尊び、外敵(外国の侵略)を退けようとする政治思想。
幕末の日本で、日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)と立て続けに、江戸幕府が外国の要求をのむ条約を締結する中、これらに異を唱えた薩摩藩士、長州藩士らによる討幕運動、明治維新へとつながっていった。
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