目からウロコが落ちるの語源は聖書?
「目からウロコが落ちる」
誰もが驚くと思いますが、これは新約聖書「使徒行伝録9章18節」のエピソードから生まれた言葉です。
もちろん「思いもよらない発想で、目が見開かされる」ことをいいます。
人間はどうしても、偏見や先入観で物事を判断してしまうことがあります。
こんなときに、誰かからの提言でパッとその迷妄が晴れることがあります。
聖書にはこうあります。
ユダヤ教徒のサウロ(のちのパウロ)は、キリスト教徒を烈しく迫害していました。
シリアの都ダマスコへ向かっていたサウロは、あるとき天からの光に包まれて道に倒れてしまいました。
そこへ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか?」とイエス・キリストの声が聞こえ、その後目が見えなくなってしました。
一方、ダマスコのアナニア(イエスの弟子)は、幻の中からイエスの声で「パウロを訪ねよ」と聞きます。
続けて「彼は私が選んだ器である。私の名を異邦人や王やイスラエルの子らにもらたすのは彼である」と託宣されたので、パウロを訪ねました。
パウロの手の上にアナニアが手を置いて祈りを捧げると、サウロの目からウロコのようなものが落ちて、たちまち元のように見えるようになりました。
それを機にパウロはそれまでの生き方の誤りを悟り、洗礼を受けるのです。
以後、彼はキリスト教布教の聖人として活躍します。
このような聖書由来の言葉には「豚と真珠」「砂上の楼閣」「笛吹けども踊らず」など、日本人にもなじみ深い言葉がまだたくさんあります。
[surfing_su_box_ex title="豚と真珠"]
知識のない者にいくら価値の高いものを与えたところで、何の役にも立たないことのたとえ。
「新約聖書」マタイ伝・7章6
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[surfing_su_box_ex title="砂上の楼閣"]
長続きしない物事、または実現不可能な計画のたとえ。
「新約聖書」マタイ伝・7章26
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[surfing_su_box_ex title="笛吹けども踊らず"]
人に何かをさせようと働きかけるけれども、相手がそれに応じないことのたとえ。
「新約聖書」マタイ伝・11章17
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