千年前の日本の元祖「糖尿病患者」はだれ?

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思えば

 

寛仁2年(1018年)にこのように栄華の極みを歌った左大臣藤原道長は、「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルともされる人物です。

ところが、この和歌を詠んだ翌年の「御堂関白記」に、糖尿病性網膜症によると思われる視力の低下を嘆く記述があります。

 

「目尚見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物のみ之を見る」

 

道長に糖尿の症状が出てきたのは51歳のときです。

藤原実資という公卿が書いた「小右記」には、道長の症状について

「牛車で外出したが、気分が悪くなり帰途についたが。たびたび水を所望した」

「近ごろ、昼でも夜でも水を飲みたくなる。口が渇いて、脱力感がある。」

などとあります。

 

古く糖尿病は「飲水病」とも呼ばれました。

のどが渇き、やたらと水を飲むことから「口渇病」ともいわれました。

糖尿病は大食、多飲、大量の頻尿とともに、腫物がなかなか治らない、目が見えなくなるなどの症状が起きます。

 

道長の発病に対して世間は政敵や関係者の呪詛や亡霊の仕業としました。

栄花物語」には、道長がいかに人の恨みを買っていたかが書かれています。

このことから道長は出家し、念仏を唱える日々を送ったりもしました。

 

しかし、実は道長はもともと糖尿病家系で、遺伝的要因をそなえていたようです。

伯父で摂政だった伊尹は48歳で死亡、兄の道隆は42歳、その子伊周も36歳の若さで亡くなっており、いずれも飲水病で苦しんだとされています。

加えて贅沢な飲食、ストレスなど発祥の条件が数々そろっていました。

 

晩年、我が子が次々に病死する逆縁を目の当たりにする中で、道長は自身の病状悪化にも苦しみました。

昏睡状態となり、万寿4年(1028年)12月4日61歳で没しています。

 

しかし、平安時代の平均寿命は男性33歳、女性27歳くらいで、40歳を超えた人はむしろ長寿だったといえます。

それでも親しい人に次々と先立たれ、その死は寂しいものっだったようです。

 

[su_box title="御堂関白記"]

平安時代貴族で摂政太政大臣だった藤原道長が著した日記。

ただし道長は生前、関白になっていないため、この名称は道長の死後、名付けられたものである。

同時代の貴族が記した日記、「小右記」(藤原実資)、「権記(ごんき)」(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で重要な史料とされる。

2013年6月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録。

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