独裁者スターリンの出現を懸念したレーニンの遺書。

歴史にif(イフ:もしも)はないといいますが、そう想像したくなるターニングポイントというものがしばしばあります。

例えば、「織田信長本能寺の変で殺されていなかったら」「毛沢東文化大革命を発動していなかったら」「関ヶ原の合戦で西軍が勝っていたら」と考えると、歴史は全く違った様相を見せます。

 

そういう意味では、ソヴィエト連邦政府でスターリンが独裁的な権力を握っていく過程でも歴史の「if」はありました。

 

1924年に亡くなったレーニンは、妻のクルップスカヤに、死後の共産党大会で自らの遺書を公開するように託していました。

しかし、レーニンが亡くなった後も、後継者となったスターリンが生きているうちは遺書が公開されることはありませんでした。

この遺書が公開されたのはレーニンの死後30年以上経過した1956年、スターリン批判の時代が到来してようやく公開され、国民に大きな衝撃を与えました。

 

レーニンは、スターリンの政治指導者としての資質に大きな懸念を抱いていたのです。

 

遺書の中の抜粋です。

 

スターリンはあまりにも粗暴すぎる。この欠陥も、我々共産主義者同士の間だけなら許されるが、書記長という職にあっては、容認しえないものとなる。それ故に私は、彼をこのポストから取り除き、別の人間を任命するよう同志たちに提案する。」

 

その他、トロッキーとの対立による党分裂の恐れや、スターリンの思いやりのない気まぐれな性格に、重大な傾向を発していました。

 

もしこの遺書が、レーニンの死後すぐに共産党大会で発表されて、彼が望む集団指導体制(50~100人)が確立されていたら、その後のソ連の歴史はどうなっていたのでしょうか。

 

たぶん、スターリン統治下の200万人以上に及ぶといわれる政治的大粛清、餓死者250万~1450万人にも及ぶウクライナ大飢饉強制収容所の群島化もなかったでしょう。

ソヴィエトを農業国から工業国へ変貌させた功績は認めるにしても、あまりにも大きな代償でした。

[surfing_su_box_ex title="ウクライナ大飢饉"](=ホロドモール)1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人為的な大飢饉。ウクライナ人は家畜や農地を奪われ、400万~1450万人が死亡。また、600万人以上の出生が抑制された。国際社会からは、ウクライナ人の大量虐殺をもくろんだスターリンによる、計画てきな飢饉であったと断じられている。[/surfing_su_box_ex]

[surfing_su_box_ex title="強制収容所の群島化"]広大なソ連領土に点在する強制収容所の分布を、大海中に点在する島になぞらえた表現。ソ連の作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィンが著した記録文学収容所群島」で記述された。反革命分子とみなされた人々に対しての強制収容所への投獄、凄惨な拷問、強制労働、処刑の実態を告発している。1973~1975年にかけてフランスで発売され、その後各国版に翻訳され、世界的に大反響を巻き起こした。[/surfing_su_box_ex]

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