石川五右衛門は湯で煮殺されたのではない?

天下の大泥棒石川五右衛門は、捕縛されて殺される前に

「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽きまじ」 (私が死んだとしても、この世から泥棒がいなくなることはないだろう)

辞世の句を詠んだと伝えられています。

 

五右衛門は、安土桃山時代の文禄3年8月24日(1594年10月8日)京都の三条河原で処刑されています。

当時は連累制で、悪事を働けば、仲間や手下のみならず家族まで刑に連座させられました。

五右衛門の場合は、その子や母親まで同時に処刑されています。

 

五右衛門は実在の人物で、当時の公家山科言継の日記「言継卿記」には

「盗人、スリ十人、また一人は釜で煎られる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり。」

との記述があります。

日付は文禄3年8月24日です。

その他、当時貿易商として日本に20年ほど滞在したベルナルディーノ・ヒロンの「王国記」にもほぼ同様の記述があります。

 

さて山科の日記でもヒロンの「王国記」でも、処刑方法は油で煮られたとあります。

「煎らる」とは油で煮ることです。

 

イエズス会宣教師のペドロ・モレホンの「王国記」の注釈によると、油で煮られたのは五右衛門の家族9人ないし10人で、その他の者は磔にされたとあります。

この信憑性の高い2つの資料により、釜ゆでは湯ではなく油ゆでが正しいようです。

 

他の説では母親は湯で煮殺され、あまりの熱さに泣き叫びながら死んでいったといいます。

 

そうなると、本来の「釜ゆで説」は五右衛門ではなく母親だったということになります。

[surfing_su_box_ex title="辞世の句"]人がこの世に別れを告げる際に詠む、和歌や漢詩など短型詩の類いのこと。[/surfing_su_box_ex]

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